このページでは酒にまつわる話や、いろんなエピソードなど書き綴っていきたいと思います。
     
VOL52: 喜界島の神社のはなし(H26.3.16)
VOL1


 喜界島には神社が48箇所もあり、狭い島中にこれだけあるというのは、それだけ宗教的な見えざる物に対しての意識が強い地域だったことがわかります。最もたくさんある神社が「保食神社」で、島内全域にわたり20箇所存在します。祀られているのが保食神(うけもちのかみ)といい、「古事記」には登場せず「日本神話」に登場する神です。

(保食神とは?:ウィキペディアより)
 天照大神は月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。天照大神が保食神の所に天熊人(アメノクマヒト)を遣すと、保食神は死んでいた。保食神の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。天熊人がこれらを全て持ち帰ると、天照大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした。

 保食神社には簡単に言うと食べ物の神が祀られているということです。喜界島という隆起珊瑚の限られた範囲の中では、昔から食べ物の確保が重要でした。そのため保食神を祀るという事につながったと言えます。
(その他の神社:抜粋)
 高千穂神社  天降神社 厳島神社 鹿児島神社 八幡神社 金刀比羅宮
 御権現宮 水天宮 末吉神社 その他
VOL2(朝戸神社)


 喜界島の手久津久というシマ(集落)の中央に朝戸神社は建てられており、沖縄からウツワ船で漂着した兄妹が祭神とされています。この兄弟は沖縄からの追手を逃れ、兄妹でありながら子供を宿し、子供が神の力を授かったという言い伝えがあります。聞けば聞くほど不思議な生い立ちに興味は尽きませんが、この神社にまつわる逸話を紹介します。

 昭和初期に語られた神社の逸話が2つあります。ひとつは朝戸の神様は、船で根屋(ニーヤ=竜宮)の神様を訪ね、幾日も遊んで過ごす事があったが、或る日、その船の前を隣のシマの船が横切ったので、朝戸瀬戸は怒って、それらの船を沈めてしまった。(喜界島の昔話) もうひとつは「あさと荒神」と題され、手久津久の船と漁を争って出た隣シマの船が、一隻の見知らぬ大きな船から湊を訪ねられた。しかし、漁を急いでいたため誰も答えなかった。同じように手久津久の船にも「湊はどこか」と尋ねられたので、その場所を教えた。すると大きな船から「早く湊に戻れ、これから大時化を起こす」と声がした。間もなく漁をしていた船はすべて大波に呑まれてしまいました。大船の主は「あさと荒神」として、気象を知らせる神として村人に祀られるようになったというものです。この話から当時の神々への信仰の深さがわかります。

 また他の逸話として、朝戸神社は海の神様であり、昔はその神社の前を通ると、釣った魚の目の玉などが無くなるとの噂がありました。どこか南の方から流れ着いた漁師が、手久津久に住んでいたが、よそ者であったため、地元の民は芋や米などの穀物を男に与える事は無く、全く付き合いはありませんでした。(この男とはウツワ船漂着した兄妹の兄?)男は山の中腹あたりの洞穴に住んでおり、魚を獲って暮らしていましたが、魚しか食べなかったため、体を壊して死んでしまいました。死ぬ寸前に集落の人々に対して「ここでは芋や米、麦などができるのに、自分は魚しか食べることができなかった。死んだ後に祀らないと皆を祟るだろう」と話をしました。人々はこれではいかんという事で、あわてた人々は朝戸神社を建てて男を祀ったという事です。人々はその神社の前を通るたびに魚を置いていくようになったそうです。

※注)紹介した逸話は昔から伝えられてきた逸話であり、必ずしも史実に基づいた話ではありません。
※参考文献
琉球の伝承文化を歩く3
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