今、私が、この南の島へきているのは、歓呼の声に送られてきているのでもなければ、人生修業や絵の勉強にきているのでもありません。私の絵かきとしての、生涯の最後を飾る絵をかくためにきていることが、はっきりしました。
(1958年、奄美移転後の手紙より) |
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1980年3月、NHKディレクターの松元邦暉氏が、取材の途中に立ち寄った奄美大島・名瀬市のダイバーの家で、壁に無造作に貼られた一枚の魚の素描に目を留め、それに心動かされました。それは田中一村という画家が描いた絵でした。
田中一村の生涯は一言では語りつくせないほど、熱く波乱に満ちた人生でした。自分の絵を支持してくれない支援者との縁を断ち切り、中央画壇との交流も辞めました。そして南国奄美の自然に自分のすべてをぶつけられる価値を見出し移り住みました。ストイックに絵の為だけに打ち込む彼の姿は周囲の人々にとって、異様な姿に写っていたようです。没後に彼の作品は一世を風靡し、数多くの人々に感動を与えました。一村の詳しい情報についてはネット上でも数多く紹介されていますので、是非調べてみてください。 |
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1908年 |
栃木県下都賀郡栃木町(現・栃木市)に6人兄弟の長男として生まれる。若くして南画(水墨画)に才能を発揮し「神童」と呼ばれ、7歳の時には児童画展で受賞(天皇賞、もしくは文部大臣賞)。また10代ですでに蕪村や木米などを擬した南画を自在に描き得た。「大正15年版全国美術家名鑑」には田中米邨(たなかべいそん)の名で登録された。(米邨という画号は彫刻家であった父の弥吉・稲村により与えられた。)
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1926年 |
東京市芝区の芝中学校を卒業する。東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学。
同期に東山魁夷、橋本明治らがいる。しかし、自らと父の発病により同年6月に中退。超之謙や呉昌碩風の南画を描いて一家の生計を立てる。
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1931年 |
23歳の時、南画を離れて自らの心のままに描いた日本画「蕗の薹とメダカの図」は後援者には受け入れられなかった。
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1938年 |
千葉に暮らし始める。
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1947年 |
白い花」が川端龍子主催の第19回青龍社展に入選。このとき初めて一村と名乗る。しかし一村は川端と意見が合わず、青龍社からも離れる。
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1953年 |
第9回日展に「松林桂月門人」として出品するが落選。
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1954年 |
第10回日展に出品するが落選。
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1955年 |
九州・四国・紀州をスケッチ旅行して回る。
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1957年 |
第42回院展に出品するが落選。
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1958年 |
第43回院展に出品するが落選。中央画壇へ絶望し、奄美への移住決意する。名瀬市でぎりぎりの日常生活と画業の生活を20年間続ける。5坪の菜園に得意の野菜を作り菜食を徹底し、大島紬の染色工で生計を立て絵を描いた。しかし、奄美に渡った後も中央画壇には認められぬまま、無名に近い存在で個展も実現しなかった。
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1977年 |
9月12日心不全で死亡。享年69歳。前夜、ひとり夕食の準備中に倒れたらしく、刻んだキャベツがあり右手近くに包丁がころがっていた。
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1980年 |
NHK鹿児島放送局が「幻の放浪画家 田中一村」(15分)を放映。
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2001年 |
奄美(奄美パーク)に田中一村記念美術館が開館。
奄美パーク、田中一村記念美術館のHPはこちら!
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※抜粋です。 |
初期 1908年から1938年までの作品
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- 白梅
- 牡丹図
- 倣蕪米
- 倣聾米
- 倣木米
- 倣鐡齋
- 農村春景
- 蕗の薹とメダカの図、ほか
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千葉時代 1938年に千葉に移り、1958年奄美大島に行くまでの作品。 |
- 白い花(1947:青龍社展入選作)
- 花と軍鶏(1953:襖絵)
- 能登四十八種薬草図
- 千葉寺の春の作品シリーズ
- ザクロ図
- 室戸岬、九里峡、由布風景、
- ニンドウにオナガ、 ほか
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奄美時代 1958年奄美大島に移った後1977年没までの作品
※実際の作品はこちらのHPから閲覧できます⇒NHK出版「田中一村の世界」
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- 素描シリーズ
- 花と鳥
- ダチュラとアカショウビン
- 「奄美の杜(もり)」シリーズ
- アダンの海辺
- 高倉のある春景
- 花と蝶、花と蛾、ほか
(注)画像は作品ではなくイメージです⇒ |
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