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喜界島の行事は奄美大島や徳之島のように年中行事と農耕儀礼に深い関係が見出せないと言われています。その中で大切に営まれてきたものが先祖祭です。この行事は島の地域で大きく二分されています。これは盆の行事とは別に行われ、節正月ともいう旧暦の八月、その最初の丁の日をシチウンムィ(節折目)といいます。十歳(もしくは七歳)以下の子供の居る家では、シチャミ(節浴み)といって湧泉の水をススキで3回子供の頭上にに振り、丈夫に育ち無事に成人する事を祈願します。また泉から拾ってきた小石を、庭の蜜柑木の股にはさみ豊饒を願います。この節折目から五日目をシバサシ(柴差し)と言います。家の四隅の軒や門口、畑などに悪霊祓いの意をこめてススキを差し、鬼の足焼きと言って門で藁火を焚きます。 |
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このシバサシの日に島の北東地域では改葬(土葬して三年忌を経た亡骸を洗骨し、瓶に納めなおすこと)し、ムヤ(台地と平地の境界となる斜面に掘られた洞窟墓)に一族が参集し賑やかに共食していました。しかし、大正期になると非衛生的だとされ、現在では墓前に料理を供え、近くの広場などに集うようになりました。ムヤの中にはティラ(骨を納め碑銘などを刻んだ石)や骨の入った瓶などが並びます。昔は風葬だったので死体を洞窟に納め、その前に小屋を建て近親者が集っていました。昭和初期まででムヤは使用されていましたが、その後は戦争の防空壕の代用に使われました。現在では新たな墓地にティラを移したり、墓石が建てられています。 |
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島の北東地域が旧暦八月にシバサシを行うのに対し、南西地域は旧暦六月の壬戌の日柄に行います。この日までに改葬を済ませ、一族の共食が行われます。これをウヤンコーとかホウスマツリといいます。 以前はシバサシの日にムチムライ(餅貰い)をした所もあります。その日の夜青年達は島の小高いヒラ(丘)や浜辺から、災いの予兆となるムンビィ(物火)がこないか見守りました。また節折目から七日目をナカンビィと言い、シバサシに差したススキを取り、門口でススキに灰を乗せ粥をかけたりしました。
一方ウヤンコーから三日目はドンガと呼ばれ、ネリヤの神の使いとされる鼠の遊ぶ日として仕事を休みました。この日から七日目をフュンミ(冬折目)といい、サネン(月桃)の葉に包んだハサムチ(餅)をヒョーンガナシ(竃の神)に供え、各家を廻りモチモレ(餅貰い)をしました。冬折目の三日前、タネトゥイ(種子取)という麦・粟・稲などの種を蒔き、その発芽で豊凶を占い豊饒を祈る行事もありました。 昔はこのように節折目からナンカビへと続く地域と、ウヤンコーから冬折目へと続く地域が二分されていました。
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一方、承継されてきた行事と対照的に消滅した行事もあります。その一つに旧暦六月の庚申などの日に、ハタタミーとかハラタミー或いはファネーなどと呼ばれる動物供犠がありました。手久津久という地域では、ヤンミントゥジというシマの広場に野羊(古くは牛)を引き出し、その首を傷付けウムンニィという木の枝に血を付け、各家の門口に差しました。野羊の肉は各戸に分配され、汁が調理されて全員が食べました。また広場の一隅にススキを四方に差し、左なえの綱に肉を吊るしカミに供えました。この日を始まりとし、夏の様々な行事の中で人々を楽しませる八月踊りのジドリ(地踊り=稽古)が始まりました。
この行事は悪霊退散などの意味がこめられたシマの繁栄を願う儀式であり、1778年に薩摩から禁止を言い渡されたにもかかわらず続けられていたようです。昭和初期になると残酷で野蛮だとの青年団からの中止決定に、年配者から反対の声もあがったようですが徐々に各地域から消えていったということです。 |
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