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砂糖地獄・・・女性、子供、老人にも容赦無く
このサイトのくろちゅうの由来のページでもご紹介しましたが、奄美が薩摩藩の支配を受けていた時代、奄美の砂糖は藩の財政を大きく支えていました。原料となるサトウキビは、主に大島(奄美大島)・喜界島・徳之島で栽培されていました。「三島方」という役所を設置し、三島の島民にサトウキビの栽培を強制し、製造された砂糖をほとんどすべて買い上げて、藩外へ高値で売るという砂糖専売制度が確立していました。
奄美は通貨の禁止、稲作の禁止、造船の禁止などを受け、徹底的な砂糖の搾取が行われました。通貨を禁止されたことで、余剰砂糖がその通貨の代わりとなり、稲作を禁止されたことで、住民のほとんどが砂糖の作用夫として砂糖の生産に従事。さらに造船を禁止することで砂糖の密売を防いだそうです。15歳から60歳の男女に強制割付を実施し、黍横目(きびよこめ)・黍検者(きびけんしゃ)などの役人に監督させて、甘藷の栽培を管理しました。 甘藷の刈り株の位置が高ければさらし者にし、粗悪な砂糖を製造すれば、かぶり(首かせの刑)・しまき(足かせの刑)に処したといわれています。ノルマを達成できない場合は女性、老人、子供も容赦なく拷問が加えられました。その結果この専売制は、薩摩藩に莫大な利益をもたらしましたが、それは三島島民の犠牲の上に実現されたものでした。そして次のような詩も詠まれました。
「かしゅてしゅてしゃんでな、誰(た)が為どなりゆる。大和んしゃぎりやが為どなりゆる」
(こんなに働いても誰のためになるの、みな薩摩の武士のためにしかならんのに)と言う意味です。
島民にとっては、薩摩の統治はまさに砂糖地獄だったのです。しかし、その様子を見兼ねて救おうとした人物が居ます。 |
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島役人に対する西郷隆盛の行動
その人物とは何を隠そう明治維新の礎となった人で、みなさんよくご存知の偉人、西郷隆盛です。実は2回ほど西郷も奄美に流謫されていた時期があります。最初の奄美では薩摩藩主島津斉興(なりおき)の計らいで名前を菊池源吾と変えて潜居していました。詳しいいきさつはここでは述べませんが、簡単に述べると幕府から身を隠すためでした。1859年1月12日に奄美大島本島の龍郷村阿丹崎に到着し、約2ケ月借家に住んだ後、小浜の龍(りゅう)家の離れ家に移転し、約3年間をこの家で過ごしていました。そのうち龍家の娘愛加那と結婚し、2人の子供をもうけました。西郷は藩から生活用品や米(年に18石)を送ってもらったにもかかわらず、米は貧しい人々に分け与えたと言われています。そんな弱者に対して優しい西郷隆盛が島民達の苦しむ様子を見て黙っているわけがありません。島役人たちの非情なやり方と島人たちの生活の窮状を目のあたりにした西郷は腹を立て、島代官に農民たちを解放するように申し立てました。
「貴殿が方針を改めないのなら、私が直接藩主公に対し、建言書を書きます。貴殿の日頃の態度も併せて上申するつもりですから覚悟をしてください」
との旨を申し立てたのです。ここに西郷隆盛という人物の本質が見てとれます。 |
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「敬天愛人」・・・西郷隆盛の行動の源
この言葉は西郷が好んで用い、自らの人生観を示した言葉であります。「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也。」(現代訳)⇒「道というのはこの天地のおのずからなるものであり、人はこれにのっとって行うべきものであるから何よりもまず、天を敬うことを目的とすべきである。天は他人も自分も平等に愛したもうから、自分を愛する心をもって人を愛することが肝要である。」
(西郷南洲顕彰会発行・南洲翁遺訓より抜粋)
西郷がこのような境地になったのは、ひとえに兄のように慕っていた月照との入水自殺が原因だろうと言われています。薩摩藩の朝廷工作に関わっていた京都清水寺成就院の住職・月照は、井伊大老が行った「安政の大獄」により、その身が非常に危険になりました。井伊大老は、反幕府と見られる行動を取った人々を、根こそぎ捕縛しようとしたのです。月照は、将軍継嗣問題(13代将軍家定の跡継ぎを巡る問題)や前薩摩藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)の率兵上京計画等に、薩摩藩と公家の近衛家との仲介役として大いに働いていた経緯があり、そのため幕府に睨まれる存在となっていました。西郷は薩摩藩のために働いてくれた月照を藩内に匿うことを主張しましたが、薩摩藩第28代藩主・島津斉彬の急死により、薩摩藩の方針が大きく変わっており、幕府から睨まれる事を恐れ、薩摩藩政府は月照の庇護を拒否したのです。その結果、西郷に月照の藩外追放(=藩外で幕府による捕縛処刑)の命令が下されました。絶望した西郷と月照は鹿児島の錦港湾へ入水自殺を図りました。その結果、月照は死亡しましたが、西郷は奇跡的に蘇生しました。それから武士として一人生き残った恥辱を感じながら過ごした西郷は、苦しみ悩んだあげく、ある一つの思想に辿り着きました。
「こうして自分一人だけが生き残ったのは、まだ自分にはやり残した使命がある、
だからこそ、こうして天によって命を助けられたのだ。」
つまり天が自分に大きな使命を与えているうちは、天が命を助けるだろう。使命を果たし、天が自分の命を奪うまでは苦難があろうと、最後の最後まで自ら命を絶つべきではないと・・・こう考える事によって西郷は敬天の思想が芽生えたと言います。その天命をつかさどる天を敬うことによって、天の本質である慈愛というものを体得しようと考えました。当然、天というものは、人を平等に愛してくれるものなので、西郷は、一切の私利私欲という欲を離れて、天と同じように、仁愛の人になることを人生最大の目標とし、とことん自分の人生と向き合う覚悟を決め、終生努力し続けたのです。 |
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西郷隆盛に学ぶ
西郷隆盛の生き方で素晴らしいのは、明治維新での活躍や奄美の島民救済の例からうかがえるように、自分や一部の人間の利益の為に動いていないという事です。死の渕を覗いてきた西郷だからできる事かもしれませんが、自分の利を放棄して、人の為に生きるということは普通の人間にはなかなかできることではありません。でも心の片隅に「敬天愛人」という気持ちを持っていられたら、きっとそこから幸せの種は広がっていくと思います。
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