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(喜界馬が移出して現在のトカラ馬に) |
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喜界島はその昔、喜界馬と呼ばれる馬がたくさん生息していました。珊瑚礁の浜で草を食べていたこの馬は、サトウキビ栽培が基幹産業の約56平方Kmの平坦なこの島に、ピーク時には4000頭も居たという話が残っています。明治30年頃、トカラ列島の宝島に移出されトカラ馬の元となり、戦前・戦時中は軍馬で名を馳せていました。しかし、温厚で名馬の誉れ高かったその馬も昭和50年代には姿を消し、喜界島には現在一頭も存在しておりません。
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「喜界町誌」や「趣味の喜界島史」(竹内譲:著)などの文献によると、「1746年11月21日、宗信公御家督継承につき、ご祝儀のため翌年春、志戸桶の喜美治なる者が島民を代表して鹿児島へ上国した。丁度その折開催された藩の馬術大会で、喜美治は他の藩士たちが持て余した駻馬(性格が荒い馬)を見事乗りこなして藩主の御感に入り、褒美としてその馬に鞍を置いたまま頂いて帰島し、これを種馬として良馬の改良繁殖をはかった」とあります。当時馬の値段が1頭につき米5石〜15石したといわれており、かなり高額だったといえます。
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馬は島で大事に育てられ、頭数を増やし農耕、運搬に用いられて、糞は貴重な肥料として珍重されました。しかし、明治の中ごろまでの喜界馬の体は小さく、長身の者が乗ると足が地面に届くほどでした。1879年(明治12年)県庁の貸下げで種馬、恒良号で改良がはかられ、1902年には県費で優良種馬が喜界島を筆頭に大島郡に4頭配備されるなど改良に拍車がかかりました。幾度も日本各地から優良種馬を導入し、改良が進められましたが、大正、昭和に入った頃には軍馬改良の掛け声とともにアングロアラブ系のギドラン、サラブレッド、アラブ系、アングロノルマンなど洋種の交雑がすすめられ、馬体は著しく大型化しました。島と大島郡内の需要から経済の躍進で沖縄の業者も進出し、1919年(大正8年)、大島郡畜産組合による馬の競り市が開催されるなど、世界大戦を機に軍馬補充部の買い付けで島は潤いました。喜界馬は性格温厚、粗食に耐え、蹄も丈夫だったので評判は良かったようです。交通手段でも馬は使用されており、医者の送迎などにも馬が使用され、それは自転車が普及する昭和34〜5年頃まで続きました。当時どの家も1、2頭の馬を飼っており、馬は農耕と生活を支える大切な働き手でした。馬は仕事が無い時は浜の共有地で管理されており、島内に5、6箇所の種付け所が設けられ、評判の種雄馬は朝から順番待ちになるほどでした。
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喜界島が馬の名産地となった理由として、喜界島は隆起珊瑚礁からできているため、土にミネラル、カルシウムが多く含まれ、アルカリ性土壌であるため良質な牧草が生えていた事、冬でも温暖な気候で野草が利用できた事、冬季はサトウキビの葉が飼料化できて周年青草使用が可能だった事などが挙げられます。そのおかげで馬の骨軟症などが無く骨が丈夫であったので、せり市でも高い評価を受けていました。
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奄美のことわざに「船と馬は並べば競う」とありますが、島民は機会があれば船と馬を競わせて楽しみました。徳之島では闘牛が有名ですが、喜界島では裸馬にまたがり速さを競う競馬のほか、雄馬2頭を戦わせる「闘馬」(馬合わせ)がありました。会場は小学校の校庭などが使用され、駻馬の蹴り合い、四つに組んでの咬み合いはすさまじく、血なまぐさいものであったため、大正6年頃には警察が中止させたという事です。
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戦後は本土むけの移出で島も活気を取り戻したものの、戦前の水準にはなかなか戻りませんでした。洋種との交雑、大型化は農家が飼育するには不適合であると昭和23年に純日本種馬への回帰が試みられましたが、頭数の減少は防ぐことができませんでした。農作業は牛馬から機械へ、運搬も自動車へと姿を変えていきました。また、食用肉も馬から牛への飼育転換がすすみ、馬の頭数減少に拍車をかけました。
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喜界島には源為朝、僧俊寛、平家落人など配流・流人伝説があり、太平洋戦争の時には特攻基地がありました。島には現在「保食神社」と呼ばれる信仰対象が21箇所ありますが、その多くは馬頭観音を祭ったものであります。馬が病気になった時、病気の快癒を祈祷したと云われています。それほど喜界島の島民と喜界馬とのかかわりは深いものだったと言えます。 |
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--------参考文献--------
ホースメイト(2006年)
喜界町誌
趣味の喜界島史
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